フリクリオルタナは誰のために作られたのか。
昨日フリクリオルタナを見て思ったことは、これは本当に監督の作りたかったものなのだろうか?ということだ。
様々なブログで酷評されている通り、オルタナはフリクリ的ではない。
フリクリに思い入れのある人間がこのような作品を作り上げたとはなかなか信じられない。
そう思って少し調べてみたところ、上村監督のインタビュー記事があった。
「分かりやすい『フリクリ』もあっていいと思う」劇場版「フリクリ オルタナ」上村泰監督の挑戦 - エキレビ!(1/5)
この記事によると、2000年に芸大の1年生だった上村監督はその年に発売されたフリクリに衝撃をうけて、アニメーターの道を決めた。トップをねらえ2!の放映が2004年なので、いきなり鶴巻監督の仕事に参加したことになる。
CG担当だったそうだが、そのエピソードを聞くと相当t優秀だったのだろうと推察される。
その情熱を推し量ると、当時18歳で何度も見た作品の続編がオルタナのようなストーリーに結実するとはなかなか考えにくい。しかし、インタビューによると、ストーリーも登場人物も上村監督自身で考えたようだ。
何かが引っかかるが、これが本来の彼の作風なのだろうか。と考えさせられた。
そこで、上村監督の他の作品についても調べてみた。
彼が監督した作品は下記のとおりのようだ。
ダンタリアンの書架(2011) 監督
パンチライン(2015) 監督
幼女戦記(2017) 監督
この中では幼女戦記しかみていないので、ユーチューブでPVと予告編をそれぞれ確認した。
それらを見てみて、これは完全に主観だが、オルタナのような作品を作る人だとはどうしても感じられない。
いずれも原作の世界観を著しく損なっているようには見えない。
これはどういうことだろうと思った。
仕方がないのでフリクリ製作の経緯について調べてみた。
カートゥーンネットワークとの共同制作。そういえばそうだった。外資が入っているのだった。このあたりがカギかもしれないと思われた。
アニメ「フリクリ」続編制作発表 米国との共同制作で日本でも放送目指す
2シーズン全12話予定。米国で放送されるということはどういった意味をもつのか。
先のインタビュー記事と合わせて、いろいろ考えさせられる。
フリクリプログレの方が先に始動していた中で、降ってわいたように上村監督にオルタナ5話分の監督依頼が来たそうだ。なにか不自然な感じがする。
スタッフを見てみれば、プログレの方には5人も監督がいる。なぜ前半5話分を上村監督が引き受けることになったのか?いろいろと腑に落ちない。
そんな風に今日一日考えてみて想像したことは「当初フリクリ2として作った脚本がカートゥーンに受け入れられなかったのではないか」ということ。
米国での2クール放送をするからには、米国の一般視聴者に受け入れられるものにする必要がある。そこで前半5話分を、より分かりやすいストーリーで練り直す必要があったのではないか。
そんな風に考えてみると、フリクリオルタナのストーリー構成はアメリカのスクールラブコメディそのものだと感じられた。
・将来のことをあまり考えていない地元大好きキラキラ女子高生。
・唐突にみんなで作り始めるペットボトルロケット。
・それに過剰なデコレーションを施すこと。
・日本人として違和感を感じる恋愛観。
・あまりスマートとは言えない日本アニメのわかりやすいオマージュ。
・なぜかプリウスに乗ってる金持ち大学生。
・わかりやすく腐敗した政治家。
・デザイナーコンテストで一位の人を無視しておいて何のケアもないこと。
・全体的に短絡的な心理描写。
・実は両家のお嬢様で純和式の家に住み、普段から着物を着ている母をもつ幼馴染。
・蕎麦屋をしているドレッドヘアのDJおやじ。
・必然性を感じないバスケットの1 ON 1。
アメリカ人が共感できるスクールラブコメディに日本的なものを加え、さらにアメリカ人でもわかる日本アニメのオマージュを付け加えた作風。まるで雑なコラージュのような作りになっていることに気づかされる。
多分この作品アメリカ人はすきだろうな、と思わされる。
結論としては、フリクリオルタナはアメリカでテレビ放映した際に、一般視聴者に気に入られるために作られたのだと思う。
そうするといろいろと腑に落ちる。
つまり、上村監督はなかなか酷な仕事を引き受けたことになる。Production IGが関わりのほとんどない上村監督にオファーをせざるを得なかったのも、ほかに引き受けてくれる人がいなかったからなのではないか?そんな風に考えさせられる。
上村監督が引き受けた理由は鶴巻監督との関係があったからなのかもしれない。
もし、そうだとすれば、思い入れのあるフリクリという作品をこのような形でまとめざるを得なかった上村監督を不憫に感じるし、現在酷評されているのもなんだ可哀そうに思う。(これは勝手な想像にすぎませんが)
娯楽作品に外資が入ることの意味について考えさせられる。
商売としてやる以上、娯楽作品の内容は、それを消費する人がどんな人か、によって決まってしまう。
日本のアニメが利益追求のためにマクドナルド化して輸出されていくのは、なんだか悲しいものがある。その方が儲かるから、という理由で、日本の人に受けるものではなく外国人に受けるものが作られていく。
今後人口が減っていけば、こういうことは増えていくかもしれない。日本人のために作られる作品が減っていくことについて考える。
文化や感性と金もうけの対立だろうか。
文学とは何か?映画とは何か?について考えさせられる。